情報社会の萌芽を30年前の初等教育の現場で見る。
ドッグイヤー(dog year)。今年の干支のことではない。犬の1年は人間の7~8年に相当するのだという。そこから転じて情報技術分野における革新の速さを、"ドッグイヤー"と表現することがある。イノベーションが疾走する情報社会を予見することは難しい。しかし1980年代後半、初等教育の現場で、ICT社会の萌芽をみた人物がいる。堀田龍也教授である。
当時勤務していた東京都下の公立小学校に、パーソナルコンピュータPC-9801(NEC製)が設備された。まだWWWは登場していない。「教育の情報化」といった明確な施策・指針もない中、抵抗感のある教員も、あるいはいたかもしれない。しかし、子どもたちは新しい機器をごく自然に受け入れ、外国人児童と一緒にキーボードを叩き、単語を教え合っていた。その姿を見て、堀田教授は今後、情報技術が社会・暮らしの中に深く濃く浸透していく、と確信に近いものを抱いた。それがグローバルに――つまり世界的な規模で展開されていくだろうとも。
それから30年、今やスマートフォンを始めとする各種端末とそれらによってもたらされる膨大な情報が、私たちの日常をトライブさせている。新しい媒体には、新しい理解と分析・整理、記述方法が求められよう。メディア・リテラシー、情報リテラシーである。
光強ければ、影もまた濃し。情報社会に備えるべきリテラシーとは何か。
現在私たちは、インターネット上の集合知、SNS、各種提供情報サービスを通じて利便性や快適性を得、高度なコミュニケーションを果たしている。ワクワクと心躍るような楽しさ、日々の充実も、情報通信技術から得ているという向きもあろう。しかし、光が強ければ、影もまた濃くなる。多様なメディアから発信される"情報"の適切かつ合理的な読み解きと活用能力、加えて現代の情報社会にふさわしいコミュニケーションスキル、情報モラルの欠如が、大きな不利益を招くことがある。
「リテラシー」の原義は、ラテン語の「literatus:教育によって、字を知っている者」だという。幼少時から自然に習い覚える話し言葉と違い、読み書き能力を養うには基礎的な訓練を反復して行う必要がある。同様に、情報デバイスも教育によらずとも感覚的なユーザーインターフェースによって駆使できるようになるかもしれない。しかし、メディア・リテラシー、情報リテラシーは、意図的な教育により涵養されるのだ。
こうした長期的視座からの情報リテラシー教育のあるべき姿を研究する一方、学校のICT環境整備や情報教育カリキュラムなどを提唱しているのが堀田教授だ。メディア教育論の第一人者として、そのアクティビティは国の教育施策と深くつながっている。
本格始動、プログラミング教育。
待望するのは自ら革新を興す人だ。
最近、「これから子どもにやらせたい習い事」として「プログラミング」が台頭している。昨年(2017年)3月に告示された新学習指導要領においても、小学校からのプログラミング教育の導入が明示された。しかし、これは情報技術者の育成だけを視野に入れるものではない、と堀田教授は話す。自身が意図し目標とする活動を実現するために、どのようなプロセスや改善が必要なのかを論理的に組み立てていく力、つまり「プログラミング的思考」を養うことを主眼にしているという。
前述のように、ICTは急速な勢いで進歩している。最先端のトレンドや技術が、見る間に陳腐化していくのを私たちは目撃してきた。が、芸術やスポーツの超絶技巧を支えるのが、基礎的なトレーニングによって身に付けた力であるように、情報社会/技術に対するファンダメンタルな理解と能力が、技術革新による社会変化に対応する力になる、と堀田教授は考える。もちろん待望するのは、自らイノベーションを興す人だ。
美しい海を臨む島で生まれ育った。広大な情報の海をゆく羅針盤を、どのようにしてこれからの子どもたちに授けていけばよいのか、堀田教授は考え続ける。教育は、国家百年の大計だ。子どもたちの夢は、この国の夢でもあるのだから。