唯一無二の生体情報で本人認証、
バイオメトリクス認証。
古今東西の哲学者・思想家は「私が私であるとは、どのようなことだろうか」という問いを論じ続けた。深く強靭な思索の世界である。そして今、高度に発達した情報化社会を生きる私たちは、様々な場面で「私は私である」ことの証明が求められる。目的とするサービスのアクセス権を手にするためだ。そして時折、嘆息を漏らすのだ
――パスワード、何だっけ?――
個人認証の方法は大きく3つ。前述のWhat you know:パスワードなどの「情報・知識」、What you have:ICカードやモバイル端末などの「物」、What you are:本人しか持ち得ない「生体的・行動的特徴」である。三番目の方法、つまり指紋、網膜、虹彩、顔、声紋、静脈パターン、DNAなどの身体的な特徴、また筆跡、キーストローク、まばたき、歩行といった行動的な特徴を基に、本人であることを確かめる方法を「バイオメトリクス認証(生体認証)」という。モノや情報と比べて、忘却・紛失・盗難などのリスクの少ない方法だ。すでに利用している方も多いことだろう。しかし、現在採用されている技術の中には、数百円程度の費用と少しの知識で、攻撃・なりすましが可能、という脆弱性を有するものがあるという。「私たちの研究室で実証済みですから」と言うのは伊藤康一准教授だ。さらなる安全性・利便性・信頼性の向上を目指し、超高精度なバイオメトリクス認証の開発に取り組むフロントランナーである。
世界最高水準の精度。ノイズの影響を受けない画像マッチング手法。
伊藤准教授らが提案するのは、「位相限定相関法(Phase-Only Correlation; POC)」に基づく指紋、顔、虹彩、掌紋、指関節紋、歯科X線などの生体認証だ。少し説明が必要だろう。
POCは、ディジタル信号化された画像をフーリエ変換によって数学的に処理し、高精度画像マッチングに必要な位相情報のみを用いて、登録情報(テンプレート)と入力画像の間の並行移動量の推定と類似度を評価するものだ。その並行移動量の推定精度は、画面の構成単位となる画素をさらに分割したサブピクセルオーダーだという。バイオメトリクス認証に際しては、たびたび撮影時にひずみなどが発生し、識別性能に影響を与えるが、POCはひずみによる画像変形にもロバストなパターンマッチングが可能だ。
生体認証の活躍の場は、セキュリティ分野だけではない。事実、伊藤准教授は東日本大震災の身元確認を支援するにあたり、遺体から得た歯科治療痕と行方不明者のカルテを照合するアルゴリズムを構築している。一方、大手電機メーカーと共同で取り組む指紋認証は、新生児の登録を対象としており、いわゆる国民識別番号制度のない国や難民キャンプなどで導入し、健康・衛生管理(予防接種等)や福祉などの社会保障などにおいて、不利益を被ることのないよう運用を目指すものだ。バイオメトリクス認証は、安心・安全だけではなく、人々の幸福にもつながる技術だ。
研究にゴールはない。新しい価値を
創造し、未来を変えてゆく。
プロセッサを研究し、作ってみたいと考えていた高校生であった。そして思った、「どうしてコンピュータの計算はONとOFFだけなんだろう。三進法はどうだろう」。今なら二進法はコンピュータにとって非常に都合のよい体系なのだとわかる。しかし、柔らかく自由な発想は「当たり前」という自明性を疑うこともできた。イノベーティブな価値創造の萌芽だ。そして偶然にも本研究科に多値論理回路に挑む樋口龍雄教授がいた。退官までの3年間であったが、教えを乞うことができたのは幸いであった。続いて師事した青木孝文教授が、バイオメトリクス研究の世界へ誘ってくれた。
そして今、指導する立場になった。学生たちに望むことはひとつ。「成長して、この学び舎を巣立ってほしい」。アドバイスは大いにする。しかしトップダウンで知識や情報を“与える”ようなことはしない。一緒に考え、試行錯誤する。「私も完全にわかっているわけではありません」と謙虚な姿勢で、若者の無限の可能性を見つめる。実は、諸外国に比べ、バイオメトリクス認証の研究に携わる大学研究者は多くない。後進の育成は、伊藤准教授のもう一つのミッションである。
研究にゴールはない――もちろん論文や提出書類には締め切りがあるが、研究という営みにはリミットを設けないほうが面白い、と伊藤准教授は言う。未知の原野であっても、広大な海原であっても、何もない場所はすなわち自分がチャレンジできる余白だ。そこに大きく研鑽の軌跡を刻みたい。「私が私であった」証左として。