情報学的に生命のシステムを理解する。
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの二重らせん構造の発見から50年を経た2003年、壮大なプロジェクトが完了した。しかし、それはまだ夢の入り口に過ぎないのだ。
ヒトの成り立ちや営みは、4文字の並び方によって決定される。すなわちDNAを構成する4種類の塩基(アデニン、チミン、グアニン、シトシン)の配列であり、この生命の設計図「ゲノム」は30億個の文字情報から成る。全遺伝情報を明らかにするヒトゲノム解析計画は、世界中の研究者の英知と努力、コンピュータの進歩と解析技術の発展を追い風に、当初の予定よりも前倒しで果たされた。ヒトゲノム全塩基配列の決定により、本格的な遺伝子診断、個別化医療、ゲノム創薬が始動している。このあたりは報道等で見聞することもあるだろう。
さて、生物は生きていくために必要なタンパク質を、DNAの塩基配列に従い自分の体のなかでつくる。タンパク質の立体構造、合成プロセス、機能などを、膨大な蛋白質構造データ(実験的に決定されている構造座標。国際的な公共データベース)から計算科学的手法により理解し、解析しているのが西羽美准教授である。「今、走っている研究テーマは主に3つ。ひとつはトランスポーターと呼ばれる膜タンパク質の機構解明、そして創薬を視野に入れた抗体のように働くタンパク質の探索、三つ目はタンパク質の分子をVRで可視化する取り組みです」。東奔西走の日々だ。
興味に導かれて、“寄り道”が多様な視点を育む源泉に。
特に創薬など、医学応用的な社会実装を目指した研究は、理論(計算・解析)と実験との綿密な連携が必要となる。いわゆる共同研究である。しかし、専門やフィールドが違うと、「用語や文化、研究の進め方が違ってやりにくい」と感じる研究者が少なくない。しかし、西先生は異分野の研究者と相対する中で、違和感を抱くことはないという。「わかりにくい点や伝わりにくいところを推し量って、コミュニケーションをとるようにしています」。そうした見方ができるのは「私の来歴と関係しているのかもしれません」とも。
実は、高校1年生の頃は文系(法律か心理学)志望だった。のちに理系(生物か情報科学)に転じた。「やはり理系への憧れというものが大きかったですね。数学が苦手な私がどこまでやれるのかというチャレンジに近いものがありました」。入学したのは土木・建築学科。学部2、3年で生物(分子生物学の面白さに開眼)、4年生以降は現在につながるバイオインフォマティクスを専攻した。柔軟な教育システム・カリキュラムが知的好奇心をすくいあげた。「自身が目指す専門分野にまっすぐ突き進んでいくことも尊いことだとは思いますが、新しく出合った学びに興味を持ち、一歩踏み込むことで新しい世界が広がるかもしれません」。“寄り道”で積み重ねた経験は、しなやかで広い視野を養ってくれた。興味に導かれて、今がある―進路に悩む若者へのエールである。
好き嫌いの価値判断はせずに、まずは付き合ってみる。
研究に困難や挫折は付き物だ。しかし時にそれらを補って余りある喜びをもたらしてくれる。だから研究は面白い。
「博士課程で論文に取り組んでいる時でしたが、データをどのような切り口でとらえていけばよいのか、煮詰まってしまってどうしても見出すことができなかったのですね。指導教員に相談した時(ほとんど泣訴に近かったのですが(笑))、先生は『これまで多くの試みや思索を続けてきて、無意識の中に何かを感じているはずだから』と助言してくだったのです。もう一度冷静になってこれまでの考察を見返していたら、ハッとひらめくものがありました。それを基に論文を編み上げることができました」。自分の中にあるものを信じて成し遂げた経験は、研究者としての自信につながった。
指導する立場となった今、西先生は学生さんにも研究のエッセンスや醍醐味を味わってほしいと願っている。「時折、『この研究テーマは苦手だ、嫌いだ』という訴えもありますが、『私も最初から生物や情報科学が好きだったわけではないよ』と答えます。好き嫌いという価値判断は留保して、目の前のことに取り組んでみる。だんだん興味がかき立てられるかもしれないし、淡々とやっているうちに思わぬ成果が得られるかもしれない。そうした可能性を見せてくれるのもまた研究という営みなのです」。
人が解くヒトの体の営み。ゲノム情報は、そしてタンパク質の構造解明は、人類のどんな夢の源泉となるのだろう。豊かな水脈のまわりには、未来を見つめた研究者たちがいる。