東北大学
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Q&A

講演のテーマ・内容に関するQ&A

各講演に関してお寄せいただいた質問に講演者が回答しております。
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長野 明子 准教授
Q.独り言の場面ではヨは使われるものの、ネは使われないように思います。これも、ヨは<自分・人>型、ネは<I・You>型の人称詞体系に対応するからである、と考えてよいでしょうか。つまり、独り言は情報を「共有」する場面ではないためネは使われないが、ヨは単に「自分」から外に発するだけなので使うことができる、ということでしょうか。

はい、ご指摘の通りです。今回の講演で参考にした言語理論(注1)では、「話し手」 (Speaker)には2つの側面があるとされます。思考主体としての側面と伝達主体としての側面です。前者が<自分>に相当するのに対し、後者が<I>に相当します。思考する<自分>にとっては、原則、「聞き手」の存在は想定されず、I とYouで形成されるWe空間であるCommon groundも想定されません。独り言とはまさにそのようなことばであるために、ネではなくヨを使うのでしょう。

一つ注意するべきは、次のQ2でも出てくる「ヨ+下降調」と「ヨ+上昇調」の区別です。独り言の文、例えば、朝起きてカーテンを開けてつぶやく「あーまた雨か」のような文では、ヨは下降調で発話されます。私の考えでは、これがヨのデフォルト形式であり、講演でお示ししたヨの使用規則はこの形式を対象としています。<自分>という思考主体がそれ自身の思考内容や知識をことばにする場合に、このデフォルトのヨが使われるのです(注2)。一方、ヨを上昇調で発話すると、(講演では扱わなかった)別の弁別素性が加わります。平たく言うと、<自分>が、<人>の知識・思考内容に関する情報を有し、それをことばにする場合に「ヨ+上昇調」が使われます。一般にいう「教示用法」です。以下のQ2とQ3も併せてご参照ください。

注1:
Hirose, Yukio. 2000. Public and private self as two aspects of the speaker: A contrastive study of Japanese and English. Journal of Pragmatics 32, 1623-1656.
廣瀬幸生・長谷川葉子. 2010. 『日本語から見た日本人:主体性の言語学』開拓社、東京.

注2:
ヨ以外にも同様の機能をもつ形式はありえますので、当該の場合に必ず下降のヨを使う、という意味ではありません。

Q.次の例文のBさんの発話で、ゼロ形式(文末詞なし)の方がより自然なのは理解できたのですが、ヨを付加しても問題ないように感じられるのですが、どうでしょうか。なぜ問題ないように感じられるか、ご説明いただけますと幸いです。
A: 田中さんは会社員ですか。
B: はい、{そうです_ /?そうですよ}。
(『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』白川博之監修、スリーエーネットワーク、p. 273より引用。Bの発話中の疑問符は、その形式が不自然であることを表す。)

講演では、文末詞ヨとネの使い分けの規則を考える上では、文末詞を付けないゼロ形式についても合わせて考える必要があることを述べました。上のように、ヨよりゼロ形式を使うほうが適切な場合があるからです。

ご質問について、重要なのは、Bさんの発話の「そうですよ」には上昇記号 が付けられていないということ、つまり、これは下降調で発話されるヨの文です。改めて下降調の文として内省してみて下さい。すると、確かに「不自然(?)」だと思われるのではないでしょうか。

講演では踏み込めませんでしたが、「ヨ+下降調」と「ヨ+上昇調」は区別する必要があります。Q1への回答で述べたように、「ヨ+下降調」は、<自分/人>型の区別における<自分>自身の知識・思考内容に関する発話であるのに対し、「ヨ+上昇調」は、<自分>が<人>の思考・知識内容について、その欠如や瑕疵も含めて検討した結果を表すと考えられます。例えば、上の例文でも、Bさんが「はい、そうですよ 」のように上昇調のヨを使うことはあり得ますが、それは、Aさんという他人の思考内容、この場合ならば当該疑問文を呈するに至ったAさんの思考について思考した結果として、解釈できるからでしょう。

Q.ゼロ形式とヨの違いの理解が難しかったです。「ハンカチ落としましたよ 」という例文は、なぜCommon Groundへの情報の移動とは捉えられないのでしょうか?

理由は、「ハンカチ落としましたよ 」の場合、話し手と聞き手の間にCommon Groundが形成されているかどうかわからないからです。この文は、たまたま電車で乗り合わせただけのような見知らぬ人に対しても使えますよね。

一方、「Common Groundへの情報移動」の中核的事例と見なし得るのは、情報を求める疑問文(information-seeking question)とそれへの応答文(answer)というペアです。そのようなQ&Aの文は、「ハンカチ落としましたよ 」の場合のように一方的に発話されるのではなく、Common Groundの存在を基にして、いわば対称的(シメトリカル)に発話されます。そして、そこでは、文末詞のないゼロ形式を使うのが最も自然なのです。

講演では、以下のようなYes-No疑問文を見ました。田中さんの応答文において、ヨで終わる形やネで終わる形は不自然ないし非文法的です。なお、ヨの文には の記号が付いていませんので、下降調で読んで下さい。

吉田: 田中さんは会社員ですか。
田中: はい、{そうです_/?そうですよ/×そうですね}。
(『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』白川博之監修、スリーエーネットワーク、p. 273とp. 275の例文を統合。発話中の疑問符と×印は、それぞれ、その形式が不自然ないし非文法的であることを表す。)

以下のように、疑問詞疑問文でも、やはり応答文ではゼロ形式が最も自然です。

吉田:田中さんのお仕事は何ですか。
田中:{会社員です_/ ?会社員ですよ /×会社員ですね}。

疑問文を発する話し手というのは、定義上、<自分>ではなく<I>として文を発しています。すなわち、<You>という聞き手を想定して発話しているはずです。そうすると、上例における吉田さんの発話は、吉田・田中両氏の間に想定されるCommon Groundである<We>空間に、変項(x)付の命題、例えば「田中さんのお仕事は何ですか」という疑問詞疑問文であれば「田中さんの仕事はxである」という命題ですが、そういう「一部情報の欠けた」命題を送り込むという働きをします。そして、対する田中さんの応答は、その命題の変項に具体的な値、例えば「x = 会社員」という値を指定するためのものです。こうして、疑問文と応答文という対によって、Common Groundには、情報的に欠けたところのない完璧な命題が作り上げられるのです。私の考えでは、これが<I/You>型会話のデフォルトだと思われます。

なお、田中さんの応答のうち、ヨの文を上昇調で読むという可能性については、Q1とQ2を参照してください。仮に田中さんが「そうですよ 」とか「会社員ですよ 」のように答えたとすると、上で見た純粋なQ&A会話とはニュアンスが違ってきますよね。何かしら、聞かれたことに対して田中さんが腹を立てているような感じが出てきます。Q1とQ2で示した案に従えば、「ヨ+上昇調」の形式を使うと、当該の疑問を呈するに至った相手(田中さんから見た<人>)の思考・知識内容について、<自分>として思考しコメントする、という性質の発話になってしまうからでしょう。

Q.英語に比べると、日本語には、文末詞以外にも、「私」「僕」「俺」のようなニュアンスを変える言葉が多いように感じます。なぜこのように、ニュアンスの違いを表す言葉が多い言語と少ない言語があるのでしょう? また、日本語のようにニュアンスの違いを表す言葉が多い言語は他にあるでしょうか?

人を指す言葉として、英語のような閉じた代名詞体系(I/You)を使う言語と、形式が少数に限定されない開いた体系を使う言語があります。現代日本語は後者で、聞き手のことを指すのに代名詞ではなく一般的な名詞を使うのが普通です。例えば、英語では “What do you think?” と言いますが、日本語の場合、「君(あなた)はどう思う?」と言うと翻訳調で、普通は、聞き手が田中先生なら、「田中さんはどう思われますか?」とか「先生はどう思われますか?」のように、固有名詞や役割名を使います。

また、ご指摘のように、「私・僕・俺」でも、英語のIとは異なるニュアンスがあります。それは、コンテクスト依存性です。どのような場面で、誰に対して発話するかによって、「私・僕・俺」を使い分けるのです。

ご質問について、講演の土台となった言語理論(Q1の注1を参照)を基にした私の考えですが、<自分/人>型の区別を基本とする言語では、固有名詞(「田中さん」)や役割名(「先生」「お母さん」)を<人>の弁別的ラベルとして使っているのでしょう。それ以外に、言語使用の場面で共存する<自分> ―誰しも、その人の視点に立てば<自分>です― を言語的に弁別する術はありませんから。その結果、人を指す言葉が、<I/You>型発話を基本とする言語の場合より、多く存在することになります。「私・僕・俺」については、自分で自分にラベルを貼っているわけですが、その際、自分がいかなる<人>と共存しているかによってラベルを使い分けているのでしょう。

この見方が妥当であるのならば、日本語以外でも、<自分/人>型の発話を基本とする言語では、やはり、”What do you think?” 型ではなく、「田中さんはどう思いますか?」型の発話をするだろうと予測されます。ただし、経験的な検証はこれからです。

Q.<I/You>型発話と<自分/人>型の使用頻度は、時代背景によって変化するのでしょうか?

言語理論の根幹を付くような、大変面白い質問です。2種類の発話型の基本を成すのはQ1で論じた「話者の2面性」です。話者には思考主体としての側面と伝達主体としての側面があると考えられます。そして、<自分/人>型発話が思考主体としての発話に、<I/You>型発話が伝達主体としての発話にあたりますので、ご質問は、「話者の2面性のうちどちらが表でどちらが裏になるかは、時代背景によって変化しうるか」について問うていることになるでしょう。即答できるものではなく、経験的な問題であることは明らかです。

1つには、近年ますます大型化・多様化する電子コーパスを用いて関連の言語形式の有無や頻度変化について調べてみるという方法が考えられます。例えば、講演では、現代日本語の中で、文末詞ヨは<自分/人>型発話に対応するのに対し、文末詞ネは<I/You>型発話に対応すると論じましたが、それぞれの使用頻度は確かに時代によって変化しているかもしれません。

日本語の代名詞体系に関してはかなり研究がなされており、そのうちの1つ(注3)によると、上代日本語は現代日本語と異なり1人称代名詞と2人称代名詞の区別があったとされています。

注3:
John Whitman & 柳田優子. 2009. 人称と活格類型―上代日本語の代名詞体系の観点から. 『「内」と「外」の言語学』(坪本篤朗・早瀬尚子・和田尚明編)内、pp. 175-214、開拓社、東京.