マンガの間から何が読めるか?
ポップカルチャーを通して見るコミュニケーションの変容
窪 俊一 准教授
窪 俊一 准教授
はじめに、マンガの特徴について整理しておきましょう。第一に、いつでもどこでも見られる、読めるという利便性です。第二に、自由な読み方が可能、ということ。マンガの場合、吹き出しだけを追いながら読む、絵だけを見る、気に入ったコマをずっと見ている、というように、どんな読み方をしようが読者の勝手、そういう自由さのあるメディアです。第三に、内容、ストーリーが面白い、テーマが非常にアクチュアルであるということ。東日本大震災の数日後には新聞の4コママンガでそのことが報じられたように、そうした意味でも非常に身近なメディアであろうと思います。第四に、内容が非常に多様です。ゆりかごから墓場まで、ずっと自分の読むマンガがある。そして第五に、視覚的な情報が多いということ。音であろうと、感情であろうと、それが視覚情報として表現されている。だから、理解が容易で、早く読める。日本特有のものとして“学習マンガ” (『マンガで学ぶ××学』など)というジャンルがあるのも、こうした特徴があるからでしょう。
次に、マーケットという視点からマンガをみてみましょう。いわゆる団塊の世代と言われる人たちは、子どもの時からマンガやアニメを読んで見て育った世代です。現在64歳の僕は若干これから遅れる世代ですが、こうした体験は共通しています。団塊の世代やその下の世代が成長し、大学生、社会人となってもマンガを読むことでマンガのマーケットは拡大し、いろいろな種類のマンガが生まれセグメント化されていきました。そして、それと並んでさまざまなエンターテインメント、ファミコンやウォークマンが登場する。そして、団塊世代の子どもたちの世代には、ゲームボーイやプレステといったものが出てくる。ちょうどこの時期がマンガマーケットにおいては一番頂上に当たる時期になります。その後の世代、現在の若い人や大学生、いわゆるデジタル世代になると、Windows95やiモード、インターネットが登場し、それらとのメディアミックスが広がっていきます。こうした時代の変遷をみていくと、片方ではマンガというメディアがどんどん広がり多様になっていく、そしてそれと同時に、新しいさまざまなエンターテインメントが子どもたち、そして大人たちにとって身近なものになっていく、その最たるものがインターネットなのではないでしょうか。
マンガのビジネスは、雑誌に連載され、それが単行本や文庫本になり、さらにアニメや映画、ドラマになるというように、かつては出発点に雑誌がありました。しかし、いまその構図は崩壊しています。出発点に位置するメディアが変わってしまいました。それを象徴しているのがスマホやタブレットの普及です。余暇の時間を、かつてはマンガ雑誌が埋めていたわけですが、スマホがそれに取って代わってきた。そして、かつて雑誌が果たしていた役割というものがインターネットになり、そして雑誌もスマホで読むというふうになってきました。さらに、オンライン書店も利用が増えており、ほぼ毎日新しいものが届くという形になっています。紙の出版と電子書籍の出版を合わせると、電子書籍はまだ1割程度。しかし、電子書籍全体に占めるコミック、マンガの割合は2017年時点で8割近く。オンラインで電子書籍という形で読むということが今普通になっているのです。2000年前後頃から、マンガやアニメが世界の若者にとっての共通の文化となり、国境、言語を超えてどこでも理解される共通言語になってきたと思います。ほぼリアルタイムで、日本のマンガやアニメが世界中で共有されるという状況にあって、マンガというものが日本というナショナリティを少しずつ離れ、表現の一つのスタイルとして認知されているとのではないかと思います。
伊藤 彰則 教授
対話アプリやスマートスピーカ、ロボットなど、言葉で話しかけるとそれを理解して答えてくれる機械がすでに世の中には多くあります。とはいえ、人間と人間の間の関係と同じように、親しい関係になって何でも話をすることは可能なのかというと、かなり難しいのが現状です。コミュニケーションで非常に重要なのは、言語音声を聞いて答えるというだけでなく、その周辺的な情報です。例えばロボットがいて、人間が「こっちに来て」と言ったとします。もしロボットが動かない、いわゆるディスコミュニケーションな状況が発生したとすれば、そこにはいろいろな可能性が考えられるでしょう。マイクが壊れているのかもしれない、雑音があって聞こえないのかもしれない、そもそも動けないのかもしれない、等々。これらが、コミュニケーションの周辺情報にあたります。ディスコミュニケーションの状況では、人間の側は、何をすればいいのか分からなくなるでしょう。一方ロボットの側からみれば、自分の前に人がいて何か話しているけれど、この人は自分に用事があるのだろうか、自分に向かって話しているのだろうか、ということになるかもしれません。これは、人間と機械の間のコミュニケーションチャンネルについて、それがどういうものなのか共通の理解が不足しているということでもあります。
私が重要だと考えているのが、「メタ認知」と「メタコミュニケーション」です。何か聞かれてそれに答えようとする時、答える具体的な内容が思い浮かぶ前に、今聞かれた内容を自分は答えられる、あるいはその内容を知らないという感覚があります。これがメタ認知です。機械に何かを聞き取らせようとした時、聞き取れなかったということがわかること、また、会話の中で話題を振られた時、振られた話題に自分はついていけるかどうかが分かる、もしくは何を振られたか分からない、というのがメタ認知です。一方メタコミュニケーションは、お互いのメタ認知の状態がどういう状態なのかを相互にやりとりすること、言い換えれば、コミュニケーションに関するコミュニケーション、と表現できるでしょう。人と機械あるいは人と人がいる時、その二人は話ができる状態にあるのか、一人が話しているけれど、もう一人はその話を聞いているのかいないのか、それを聞いて怒っているのかうれしく思っているのか等々、そうした周辺情報を伝えるコミュニケーションがメタコミュニケーションです。こうしたメタコミュニケーションは、現在のところ機械と人間の間ではまだほとんど行われていません。例えば、ロボットと人がいて、人が「やぁ」と言ったとします。この時「やぁ」という音を聞いて、書き起こして、それに対して単に答えるというのではなく、この人は初対面だなとか、こっちを見て話しているから自分に用があるに違いない、笑顔だからきっと敵意はないだろう、というようにその場の状況をいろいろ考え合わせた上で、「こんにちは、御用はなんですか」という返答ができるようになれば、人間と機械の間でのディスコミュニケーションがだいぶ緩和されるのではないでしょうか。
私がこれまで取り組んだ研究の中で、メタコミュニケーションに関連するものをいくつか紹介します。まず、音声対話システムにおけるエージェント(ゆるキャラ、リアルCG、ロボットなど)の効果を調べた研究があります。家電製品を操作する際、言葉で指示すると動くというのではなく、スマホでその家電製品を映すとそこにキャラクターが現れて、それと対話するようにしました。この研究では、キャラクターが出てくると、話しかけやすくなった、口調が親しくなり単語数が減ったという効果が確認できました。また、コミュニケーションロボットの場合はどれくらいの大きさがいいのか、という研究も行いました。その結果、一番話しやすいのは人間の目線よりも少し下ぐらいの大きさ、高さ1200mm程度のロボットだというのが分かりました。ロボットが動いている時に人間の言うことに突然反応しなくなったら人間はどうするのか、という研究もあります。ロボットに「止まれ」と言っても止まらない時に人間はどうするのかを調べました。「ストップ!」と大声を出して止めようとするだろうと考えていたのですが、実際にはそうではなかった。声の高さは少し高くなりましたが、声の大きさはあまり変わらない。そして、言い方が「止・ま・れ」というように遅くなることが分かりました。この他にも多くの研究がありますが、声を使ったコミュニケーションに対するメタコミュニケーションの研究を通して、最終的には人間同士のコミュニケーションのように、顔色とか雰囲気とか、そういうものを重視するようなコミュニケーションチャネルを実現できればと考えています。
長野 明子 准教授
この会場にいるみなさんはほとんど日本語の母語話者だろうと思いますが、文末に現れる文末詞ヨとネとヨネの区別が無意識にできると思います。ちょっと難しい言い方をすれば、ヨの文とネの文がミニマルペアを形成するということがすでにお分かりということです。ミニマルペアというのは、その中で1つを選択することは意味の対立を生み出すようなペアのことです。つまり、ヨで文を締めるか、ネで文を締めるか、ヨネで文を締めるかによって、メッセージの意味が変わってきますよね。
しかし、われわれ、ヨとネとヨネの使い分けを学校で教わったという記憶はないですよね。つまり、私たちは母語の規則、ルールを知っているのですが、それは外国語について意識的に学ぶ学校文法とは違うんですね。母語についてのルールというのは、無意識のうちに獲得されたルールであるということです。私の専門の言語学、現代言語学も無意識に学んだ知識の方をターゲットとしています。人の言葉を対象とする言語学は非常に長い歴史を持っている学問体系で、個別言語(英語、日本語、中国語など具体的に名前の付いている言語)を厳密に観察し比較することを通じて、ヒト一般の心の中にある言語知識の性質や型を明らかにしようという目標を持っています。そこで最も重要なのが、20世紀を代表する言語学者ノーム・チョムスキーの登場です。言語学史でいう「チョムスキー革命」ですが、以来、知覚できる言語と心の中にある言語というのは区別して考えるべきだというような考え方が支配的になってきました。チョムスキーの言葉でいうと、E-language(externalized language)とI-language(internalized language)、音になって知覚する、書いてあるものを知覚する、その知覚される言語というのは心の中にある何らかの表示が知覚可能な形を取って出てきたものだろう、という考え方です。
先ほどみなさん、ヨとネというのを自動的に判定されました。日本語を母語としない人の場合は、外国語の学校文法として勉強していくしかありません。『日本語文法ハンドブック』という日本語教育で使われている教科書を見てみると、次のように説明されています。ヨというのは、聞き手が知らないことに注意を向けさせる。よって、知らせ、注意・警告の意味になる。ただし、疑問文への応答 (answer) にはヨは使いにくい。次にネは、聞き手が知っていると思われる事柄を述べる時に使う。よって、同意要求か、確認・念押しの意味になる。ネも、疑問文への応答では使えない。なぜ私たち母語話者は、教えられずともこういうことを自動的に判定できるのでしょうか。
それを考えるために、発話の型というものをみてみましょう。発話をするというのは、必ずそこに話し手がいるということです。『話し手』を私たちはどう言語化しているかというと、英語は“I”と言い、日本語は「自分」と言います。このIか自分かというのは、発話の2つのパターンに対応しているというのがポイントです。発話者が自分のことをIというふうに言う体系では、聞き手はYouになるんですね。そして、IとYouの間にはWeと名付けられるコモングラウンド(共通地点)が想定されるわけです。一方、話し手を「自分」と呼ぶ体系では、Weに相当するコモングラウンドがないんですね。自分以外は「人」、聞き手であろうと聞き手でなかろうと、「人」だからです。そうすると、ヨとネは、どうもこの2つの発話のパターンを使っているのではないかと考えられます。
まず、ネの方ですが、「あら、こんにちは。いつまでも暑いですね」。この時の文末はネじゃないといけません。ネのイメージというのは、I・You発話型でWe(コモングラウンド)のところにその情報がすでにあるよね、という意味になります。一方、ヨの方ですが、「あら、ちょっと、ハンカチ落ちましたよ」という例文では、自分の認識スペースから、「人」スペースという自分の外のスペースに向けてただその情報を送り出しているだけで、コモングラウンドへの情報移動ではないということになります。
さらにもう一つ、ヨもネも使えないという場合があります。例えば次のような例文です。「田中さんは会社員ですか」「はい、そうですΦ」。そうです、という文末にヨもネもない形式をゼロ形式と言いますが、これは、I・Youの発話認識スペースにおいて、Iの空間からコモングラウンドの空間にその情報を移動させている、というイメージになります。
Φ ゼロ形式(そこには音形がないこと)
× その例文が容認されないこと
? その例文が不自然であること
ということで無意識のルールということを最初に申し上げましたが、おそらく文末詞に関しては話者の認識空間における情報の存在と移動、それを明示する形態素であると考えることができます。ルールを書くと、まずネは『Weの空間コモングラウンドに情報が存在する』ということになる。それに対し、ヨというのは『自分スペースから外に情報を移動させている』。最後にゼロ形式は、『Iの空間からWeというコモングラウンドに情報を移動させている』ということになるのではないかと思います。
最後にもう一つ、ヨネというのはちょっと難しい。「あれ、電気がついている。さっき確か消したよね」のヨネは確認用法と言われ、どちらかというとネに近い。「ごめん。待った?」「1時間も立ってるのは結構疲れるんだよね」という場合、このヨネは非難用法と言われ、どちらかというとヨに近い。とすると、ヨネという形態素連結(2つのものが並んでいる連結)においては、ヨとネのどちらが中心人物なのか、どちらが主要部なのか決まらないということですが、そういうものを、言語学では「等位型連結(coordinate concatenation)」と言います。これは文末詞だけに見られる現象ではなく、日本語には等位型複合語というものがたくさんあります。「父母、男女、親子、兄弟」とか、形容詞の連結である「善悪、大小、高低、強弱」というように。「父母」という複合語では「父」と「母」が並んでいますが、どちらも同じステータスで並んでいるわけです。それで、あらためてヨネについて考えてみると、発話レベルでの等位構造ではないか。ヨというのは自分型発話、ネというのはI型発話ですが、ヨネというのはあたかもマルチタスキング(1つの文でいろいろなことをやろうとする文)な発話であって、Iとして発話しながら一方で自分としても発話するというようなことをやっている、そんな形式ではないかなと考えられます。
言語学は、人の言葉を研究しますが、実は、言語学者は人が言葉を用いて実際に何をするかということにはあまり興味がありません。言語学者が本当にいま面白いと思ってやっているのは、知覚できる言語資料(今回のヨ、ネ、ヨネなど)からヒトの心についてどういうことが分かるかを明らかにするということです。そう考えると、日本語の文末詞というものも、私たちの心に表示されている抽象的な型の具現形(realization)であり、会話の2つの原型について、面白い証拠を提供するのではないかと考えています。
浦本 武雄 プロジェクト特任助教
今日は、言語学にルーツを持つ問題に対して、代数学の抽象数学の手法を使う代数的形式言語理論という数学を紹介します。数学者が抽象的な概念を導入するのには必ず理由があります。導入された抽象的な概念がどのように役に立つのかということを、具体的な問題を通して紹介することを、今日の目標としたいと思います。
そのためにまず、言語に関する素朴な問題から考えていきます。英語の例文を見てください。
1と2は英語として意味をなす文字列、3と4は意味のない文字列です。3は冠詞がanになっており、文法的に間違っているという意味で英文として成立しません。こういった文字列を見て、僕らは意味があるとか意味がないとか、英語として正しいかどうかというのを瞬時に判断するわけですが、こういった2つの英文として成立するものと成立しない英文字列の間を区別しているものはいったい何なのか、こういった英文字列を読み込んで正しくそれが英文として成立するかどうかを判定するアルゴリズムは存在するのでしょうか。常に正しい出力を返してくれるような、正しいアルゴリズムではないかもしれませんが、英文法というのはそういった正しい英語が満たすべきパターンを特定しようとする試みだと思います。英文字列だけではなくて、機械が直接読むような0と1からなる文字列も研究対象です。あるいはもっと抽象的に左括弧と右括弧のようなさまざまな種類の括弧からなる文字列も研究対象です。こういった文字列を入力として受け取った時に、一定の性質を判定するアルゴリズムがあるかどうかという問題を考えたい、それが形式言語理論の目標の代表的なものです。
文字列を読み込んで一定の性質を判定する問題には、問題ごとに難しさの程度の違い、難易度の階層があります。ここでは、難しさの程度を定量的に比較して分類してみましょう。まず、難しさの違いがあるということを直感的に理解してもらうため、2つの問題を考えたいと思います。
問題1は、左括弧と右括弧からなる文字列を読み込んで、それが括弧としてちゃんと対応が取れているかどうかを判定する問題です。問題2は、0と1からなる文字列を読み込んで、その中に現れる0の出現回数が3の倍数になっているかどうかを判定するという問題です。どちらがより難しいと思うでしょうか?問題1は読み取った左括弧の個数、あるいはまだ消費してない左括弧の個数を正確に、任意の有限のサイズで覚えなければいけないのに対し、問題2で記憶しておくべき情報は3通りだけです(個数を3で割ったあまり、0か1か2だけを覚えれば十分)。この意味で問題1は問題2よりも難しいということがわかります。このように僕らは文字列の性質を判定する問題にはさまざまな難しさの違いがあって、階層があるというわけです。
こういった問題の階層をいかにして分類するかという問題ですが、有限メモリで判定可能であるような問題のクラスに関していえば、すごくきれいな数学的にも美しい方法論が存在します。それを見るために、有限メモリで判定可能な問題のクラスの中でも簡単な例題を見てみましょう。
0と1からなる文字列を読んだときに01と1の繰り返しで表せるかを判定したいと思います。0101と101は、1と01からなっているので成立、1101101001と10110は01と1の繰り返しではどう頑張っても表せません。これを判定するには、あらゆる分解のすべてを考える必要はなく、少し工夫すると簡単な判定基準になります。例えば、この文字列が01と1の繰り返しで表せる場合は、0が来たら次に必ず1が来なければなりません。00が来ることは絶対にない、00が現れることがボトルネックになっている。つまり00というキーワードを含むかどうかでこの問題は扱えるというわけです。
このように有限メモリで判定可であるような文字列の性質を判定する問題のクラスでもいろんな階層があって、そのうち1つがいま紹介したキーワードを見て判定できるような問題です。一見して簡単な階層に属しているようには見えないものでも、ちょっと考えればこの階層に属しているということが証明できる場合もありますが、逆に簡単な階層には決して属さないということを証明するのは、数学において一般にはとても難しい問題になります。
数学者は一般に、「絶対に〜ができない」ということを証明するために代数的不変量を使うことがあります。ここで紹介するのは、代数的不変量の中でもモノイドと呼ばれる種類の不変量です。モノイドの例の一つが自然数の掛け算です。小学校で掛け算、九九を習ったと思いますが、九九の表と違うのは、9までじゃなく無限に続いているという点だけです。自然数の積には、結合的であるという特徴があります。結合的というのは、3×4をした後に×2をしたものと、4×2をした結果に3をかけるものは等しい、つまり積の取り方の順序によらず結合的であるという性質です。もう一つ、任意の自然数aに1をかけても必ずaになるという性質もあります。こういった自然数の積を満たす性質一般化したものがモノイドです。というのは簡単にいうとそういった自然数の積を満たす性質を一般化したものです。
有限メモリで判定可能な問題に対して、それが簡単な階層に属しているかどうかを知るために、問題に対して一定の手続きで有限サイズのモノイドを作ることができます。前項の問題2「0の出現回数が3の倍数?」という問題に対して、大きさが3×3のモノイドを作ってみるとこうなります。
あるいは「01と1の繰り返しで表せる?」という問題に対して、6×6のサイズの表モノイドを作るとこうなります。
大事な点は、こういったモノイドを作ることの意味は、ある問題がより簡単なクラスに属しているかどうかという問題を、結果として得られるモノイドがある方程式を満たすかどうかという問題に帰着させることができるという点です。これはSchutzenbergerの定理といって1965年に証明されたものに基づきますが、端的に上の例で言うと、問題が与えられた時にそれがキーワードで判定可であるかどうかを知るためには、一度モノイドに変換してそのモノイドがある方程式を満たすかどうかを見ればいいというわけです。
言語の階層を分類するという問題に対しても、元々の言語に関する問題を一旦モノイドという抽象的な代数の問題に置き換えることによって言語の対象を分類できると考えられます。数学では何か抽象的なセッティングをすることで、異なるものが実は等しいということが分かったりする場合もあるのです。情報科学は物理学と同程度の基礎科学になるであろうと僕は考えています。とかく技術やすぐに応用できるようなものに注目が集まりがちですが、個々のものに普遍的な法則を見いだすことも科学の恩恵だと考えています。そして、情報科学の基礎的な部分に数学があるということを簡単な例を通して体験していただければと思い、今日はお話しをさせていただきました。
水木 敬明 准教授
はじめに場面設定ですが、友だち同士のAliceさん、Bobくんという2人がいて、お付き合いするかどうか決めたい場面を想像してください。付き合うかどうかについてAliceさん、BobくんはそれぞれYesとNoという気持ちを持っているとして、「1・2の3」で告白し合うとどうなるでしょうか。可能性はNo/No、No/Yes、Yes/No、Yes/Yesという4通りがあります。交際成立/不成立で見ると、Yes/Yesの時だけが成立で、他は不成立になります。問題になるのは、No/YesとかYes/Noというふうにお互いの気持ちが一致していない時。ちょっと気まずくなりそうじゃないかなと思います。これを何とかしたい、気まずくならないようにしたい。その解決法の一つに、口の硬いCarolさんに2人をそれぞれ個室に呼び出してもらい、2人の気持ちを聞いてもらうという方法があります。まずAliceさんを呼び出して聞きます。AliceさんはNo、次にBobくんはYesと言います。そこの段階でCarolさんは2人の気持ちを知ったので計算ができ、この場合No/Yesですから不成立なので、その不成立という事実だけを2人に報告します。内訳は隠して、ただ単に「不成立ですよ」ということだけを言います。この時AliceさんにはBobくんのYesという気持ちはバレていません。なぜなら、AliceさんはNoと言っているので、必ず不成立になるのです。自分がNoと言っている以上は必ず不成立になるので、ここで不成立と言われてもBobくんがNoなのかYesなのかは分かりません。Bobくんにとっては非常につらい状況ではありますが、少なくとも自分の気持ちはバレていないので、そのことを我慢すれば友だち関係はずっと続けられる、一応気まずさは防げるということになります。
ただやはり人間のCarolさんにお願いするのは気まずいものです。そこで暗号プロトコル(やりとりの仕方の手順)の登場です。いまCarolさんがやってくれたことをプロトコルというものにお願いするわけです。それが秘密計算です。
ここでは、カードを使った秘密計算を紹介したいと思います。1989年にden Boerさんという人が考えたFive-Card Trickというものです。トランプのカードのようなものを使い、シャッフルしたりめくったりして秘密計算をやっていきます。今回使うカードは、赤と黒の2種類のカードで、裏にするとみんな同じ模様になっています。
まず、YesとNoという気持ち、その値を赤と黒のカードを使って表現することにします。つまり黒赤と並んでいたらNo、赤黒と並んでいたらYesというふうに決めます。そうするとAliceさん、Bobくんは自分の気持ちを黒と赤のカードを使って、テーブルの上に置くことができますね。
ここからいよいよ秘密計算のスタートです。まず、それぞれの気持ちを表すAliceさんのカードとBobくんのカードのまん中に、赤いカードを1枚追加します。
さらに一番左側の2枚の順序を入れ替えます。
そうするとどうなるでしょう。2人ともYesで成立の時は赤がまん中に3枚並びます。
この段階でめくってしまうと2人の気持ちがバレてしまうので、ちょっと工夫します。真ん中の赤いカードを裏返しにします。
次にランダムカットというシャッフル、巡回的にぐるぐる回すようなシャッフルをします。そうすると、5枚のカードを回したので、1枚ずれるか2枚ずれるか3枚ずれるか…、1/5の確率で5通りのどれかになります。
最後に5枚のカードを全部めくります。
めくると、左のように赤が3つ並ぶと交際成立、そうでない場合は不成立になります。これで成立か不成立かだけを計算することができました。ということで秘密に計算ができたということになります。これがFive-Card Trickというものです。
答えや結果をNo・Yes、成立・不成立と言ってきましたが、ここからは0と1で表現することにしたいと思います。Noが0でYesが1、不成立が0で成立が1とします。次に、AliceさんとBobくんの気持ちを変数aとbで表すことにします。aもbもそれぞれ0か1で、0の時はNoで1の時はYesということです。こういうaとbは0か1をとるのでビットと呼んだりします。
カードによる秘密計算では、AliceさんとBobくんは自分の気持ちを2枚のカードを使ってテーブルに置きましたが、これは次のような形で書けます。
置いた2枚の下にaと書いて、これが0だったらここが黒赤と並んでいて、1だったら赤黒と並んでいるイメージです。これをコミットメントというふうに呼ぶことにします。そうすると、aのコミットメントとbのコミットメントがあって、次の表にあるような、aが1でbが1の時だけ1になり、他は全部0になる、そんな計算をしていたことになります。この計算はよく見るとかけ算ですよね。ここではVをひっくり返したような記号∧でかけ算を表し、論理積と呼ぶこともあります。
次に3人以上の場合はどうすればいいかを考えてみましょう。簡単のため、3人の場合を考えてみます。3人がカラオケに行くかどうか決めたくて、それぞれの気持ちをテーブルに置いています。もしかけ算の結果が1だとすれば、aもbもcも1、つまり全員Yes。かけ算の結果が0だったら、aかbかcのうち少なくともどれか1つが0、誰か行きたくないという人が一人はいるということになります。
先程の2人での秘密計算を3人以上に拡張するには、aとbのコミットメントから、a∧bのコミットメントを裏になった状態で手に入れることができればいいということになります。2人の場合は、真ん中に1枚だけ赤いカードを置きましたが、今度のプロトコルは黒赤2枚を真ん中に置きます(ステップ1)。これを裏返しにして、下図ステップ2の要領で1枚と2枚を入れ替えます(ステップ2)。次にランダム二等分割カットというシャッフルを適用します(ステップ3)。これは真ん中で割って左右を分からなくなるまで交換するようなシャッフルです。次に下図ステップ4の要領で2枚と1枚を入れ替えます(ステップ4)。最後に左側の2枚をめくります(ステップ5)。めくると2通りが出てきて、黒赤が出た時は真ん中の2枚がかけ算の結果、赤黒が出た時は右側の2枚がかけ算の結果になり、裏になった状態で手に入るということになります。
これでa∧bが出来たので、これとcさんのコミットメントを使って、同じプロトコルをもう一回やります。するとかけ算なので、a∧bにさらにcが掛かる感じになって、a∧b∧cのコミットメントが得られます。これで3人の秘密計算の結果が出てきます。もちろん5人でもできます。かけ算なのでどんどん繰り返していけば、a∧b∧c∧d∧eなども簡単にできるということです。私どもが考案したこのプロトコル以外にも、他の研究者が作っているプロトコルがありますが、カード枚数が多かったりシャッフル回数が多かったりして、私どもが開発したこの方法が一番やりやすく、世界で一番優れているというふうに言われています。今回のお話を通して秘密計算というものがどういうものかを感じていただけたら幸いに思います。
北形 元 准教授
はじめに、インターネットがコミュニケーションに与えた影響について考えてみたいと思います。Windows95が登場したのはいまから24年前ですから、現在大学生のみなさんにとっては、生まれる前から普通に普及していたということになります。人と人のコミュニケーションの最初の革命は電気通信、つまり電話や電信の登場です。そして、第2の革命として挙げられるのがインターネットの普及。何が第2の革命に相当するのかというと、低コストで世界共通のプロトコルでどこまでもつながっていく、そして、非常に重要なのが双方向性、両者でデータがやり取りできる、デジタル通信で安定した通信ができるということです。これによって、コミュニケーションの範囲が一気に広くなり、またその手法も多様化しました。初期のインターネットは電子メールや電子掲示板からスタートしました。インターネットの回線の速度がどんどん速くなってくると、今度は音声を使った通信やビデオを使った通信が登場します。さらに、ウェブブラウザとウェブサーバから成るWorld Wide Webという技術が出てきて、ホームページやブログによって誰でも情報を発信できるようになった。これが双方向性の一番大きな影響になります。そして現在は、ウェブブラウザを基盤として、SNS、Twitter、Facebook、というものが発達し、一方でオンラインゲームやソーシャルゲームといわれるスマートフォンを使ったゲーム、動画の配信、動画の生放送というように多様化が進んでいます。
これらをインターネットがもたらした光とすると、一方で影と呼べる面もあります。一つは、使える人と使えない人の格差、ディジタルデバイドです。情報リテラシー、自分で情報の真偽を判断するような基礎的な能力の有無によって、中には騙されてしまう人がいる。あとは迷惑メールや詐欺サイト、サイバー攻撃、デマの拡散など、いままでなかったような問題も出てきています。さらにいま、若者がスマートフォンに病的に依存してしまう“インターネット依存症”というような新しい問題も出てきています。2018年に厚生労働省から発表された調査結果では、ネット依存症に該当する中高生の生徒数は93万人、これは5年前の調査の倍近くになっているということでした。
情報通信を使ったコミュニケーションシステムの研究をしている私にとってのゴールは、さまざまな手段とさまざまなメディアを使って、ストレスフリーにコミュニケーションができるシステムや方式を開発することです。さらにそれが、あたかも対面で会話しているような臨場感を得られるようなシステムにできればいいなと。ただしこれを推し進めていくと、これは結果として人びとは居ながらにして世界中の誰とでもどんな共同作業でもできてしまう、つまりは引きこもり支援になってしまうのではないかという危険性も感じるわけです。
そこで私の実現したい社会を図に表してみました。それが下の図です。
これには2つの軸があり、横軸は移動性、モビリティ、モバイルコンピューティングと呼ばれる、無線通信によって“いつでもどこでも”を実現するというものです。もう一方の軸が斜めになっている拡散・浸透性という軸です。この2つの軸に囲まれた青い範囲が現在までのユビキタスコンピューティングです。ユビキタスコンピューティングを元々提唱したマーク・ワイザーという人がいますが、彼が最初に提唱したユビキタスコンピューティングは、コンピュータが生活に関わるいろいろな場所に見えないような形で浸透していく、いつでもどこに行ってもコンピュータの支援を受けられるという意味でした。ところが、持ち歩いてどこでも通信できるなら、それもまた“いつでもどこでも”ということになり、この移動性の方がいまは少し進んでいるということが言えると思います。その代表的なものがスマートフォンということになります。
一方で最近は、拡散・浸透性の軸の方にまた戻りつつあるということもあります。IoT(Internet of Things)、モノのインターネットということで、元々コンピュータと関係のなかったようなモノの中にもコンピュータおよび通信機能を入れてネットワークでつなぎ、人びとの生活を支援したりする。これは、拡散・浸透性の軸の方に進んできている動きと言えるでしょう。さらに、この軸に新たに社会性と人間性を加えて、モバイルではない、端末を持ち歩かずにいろんなところを訪れると自然に支援してくれるような、実世界とコンピュータ・ネットワークのサイバースペースがうまく調和した社会というのを作っていきたい、というのが私の研究テーマです。
社会性とは何かというと、初めて利用する場所でもうまくコミュニケーションしてタスクを実行・遂行できるというような性質です。そして人間性というのは、人のことを思いやってくれるようなシステムです。ユビキタスコンピューティングにこうした軸を加えることで、ストレスを感じさせないようなシステムができるのではないかと考えています。
具体的には、タクシーに乗った時、住所を詳しく言わなくても、「自宅にお願いします」といえばあたかも自分のことを知っているようにうまくカーナビに目的地が入ったり、血圧が高い時はレストランのメニューが自動的に減塩メニューに変わる。また、駅の案内板の表示が、高齢者が見ると文字が大きく見えたり、子どもが見るとフリガナが自動的にふられたり、そんな利用者に合わせたさりげない優しさというのができるとうれしい。こうした仕組みができると、人間性・社会性を備えたサービスに近づくのではないかと考えています。
最後に、人に働きかけるコンピュータについて紹介したいと思います。ストレスフリーなコミュニケーションを実現するには、ネットワークの通信設備を安定して運用することが必要です。そこでコンピュータの中の賢いソフトウエアであるエージェントを使って、ある程度ネットワークを自動管理しようというシステムが考えられました。ところがこれまでの手法では、ネットワークを管理する人間がコンピュータの中のエージェントに何か指示を出さないとシステムは基本的に動かなかった。そこで今回の提案手法では、人と人との会話を見ていて、なんか行き詰まっているなと思ったら、このコンピュータの中のエージェントが介入してきて、「何かお手伝いしましょうか」と言うわけです。具体例を作ってみましたので以下に紹介します。
この例には2人の管理者がおり、「動画サイトが動くか確認してください」と1人が言うと、「接続できませんね」ともう1人が答えています。オレンジの部分はコンピュータが介入して自動的に発言している部分で、「障害ですか、診断しましょうか」というふうに言ったり、「診断して」と管理者が言うと裏で自動的に診断を行い、「こういう風な動作をすると直るかもしれませんのでやってみませんか」と管理者に依頼する。それでも返答がないと「わかりにくかったですか」と催促したりしています。こうした動作をすることで、さらに人と機械の距離を近づけることができるのではないかと考えています。このような試みを通じ、ストレスフリーで豊かなコミュニケーションの実現に向け、人と機械が調和する社会をめざしていきたいと考えています。
モデレータ
河村 和徳 准教授
モデレータを担当する政治情報学の河村です。はじめに、私の研究紹介を簡単にしておきます。コミュニケーションの関係では3つの方向で研究を行っています。一つめはアイドル総選挙のインターネット投票システムの研究開発です。商用化を目標としており、公職選挙への展開も考えています。もう一つが、スマイルは投票行動にどう影響を与えるか、ポスターの背景の色はどうかなど、非言語的コミュニケーションと政治判断に関する研究を行っています。そしてもう一つが、社会性の話、いわゆるサイバーセキュリティです。そうした研究に取り組んでいる私からすると、本日の6人の先生方の講演は、自分にとってありがたい、将来性があると感じさせる内容でした。
このパネルディスカッションでは、一問一答形式になってはしまいますが、私の方から先生方に質問をさせていただき、それぞれお答え願えればと考えています。6人の先生を3組に分け、あらかじめ質問の方を作ってきました。
まず窪先生と伊藤先生への質問です。コミュニケーションにおいては、文字の情報だけでなく非言語の部分も大きな要素になっていると思います。非言語情報をどう捉えたらいいのか、その点について窪先生と伊藤先生にもう少し詳しく説明していただけるとありがたいなと。
マンガは非言語情報の塊のようなもので、ほとんど視覚的な情報で成っています。それらは多分に約束事で成っていて、わかる人にはわかるけどわからない人にはわからない、あるいは非常に単純化というかステレオタイプ化されており、例えば何かを見てそれがすぐに分かるというのは、それが一般的に社会にある程度共有されているということが前提になってもいるのです。マンガの表現について、「差別」という観点から非難されるということが過去にありましたが、片方ではそういう風に非難されるのも当然かもしれないと思います。しかしもう片方では、そうしたイメージがそもそも社会において共有されているということがあるので、それこそを問うべきではないかとも思うのです。マンガの中の非言語情報というのは歴史の中で作られていく、誰かが何かしらの記号を使い始め、それを他のマンガ家が真似をし、それが次第に読者と共有されるという、そういう形でいろいろな記号があるわけです。そうした記号を使うということが文化を形作っているという意味では、日本であれば日本という場である程度了解されているということでしょう。それが外国など他の文化圏に行った場合に理解されるかどうかというのは、また別の問題ではないかと思います。
ありがとうございます。窪先生の話を聞いてジョジョの擬音語のことを思い出しました。あれが最初に出てきた時は衝撃というか、小・中学生くらいでしたが、あれがやっぱり時間が過ぎていくと共有されていくというのがありますし、宮城県は石ノ森章太郎の聖地でもありますので、そういうマンガの中で文化が育っていくというところはなるほどと思いました。それでは伊藤先生の方からコメントいただけますか。
非言語情報とは言語情報以外のすべてをさしますが、私が主に扱う音声の中にも非言語情報はあります。音声情報は大きく分けると、言語情報と非言語情報とパラ言語情報の3つから成るといわれています。言語情報は音声の中の言葉に書き起こせるもの、非言語情報は誰が話しているのか、どういう声なのか、場合によっては感情が入ることもあります。パラ言語情報というのは声のイントネーションによってニュアンスを伝えるみたいなものが含まれています。声に表れないものは、視線とか表情、体の動きとか見た目などが含まれると。そういうものが全体として人間間、あるいは人間—機械間の非言語情報として機能しているのだろうと思います。次に、非言語情報は人と人、あるいは人と機械のコミュニケーションにおいてどう役立つのかという点です。人間というか動物にとって、非言語情報が本質的なのだと思います。生まれたての赤ん坊は言語が分かりませんから、最初は全く何も分かりません。そのうち人見知りが始まって、話している内容や見た目、表情などは言語的には理解できないけれど、自分にとってこの人はいい人か悪い人かというそのレベルでは分かるようになります。それがその後の対人関係などにも関係してくるのだろうと思います。大きくなってくると言語情報の比率が大きくなるので、だんだんそういうところは意識しなくなってきますが、非常に本質的というか原始的なところでそういうものが人間間のコミュニケーションに効いてくるのだろ、という感じを持っています。人間と機械のコミュニケーションの話でいえば、そういうものを調整して人間との間のコミュニケーションをハックするといいますか、「こいつは信用できる」と思わせるような行動を取らせることで、円滑にコミュニケーションができるようにしたらいいのではないかと考えています。
ありがとうございます。
続きまして、浦本先生と水木先生に質問させていただきます。実世界の方を研究している私のような研究者にとって気になるのが、交渉する際のブラフとかハッタリといったものです。お二人が研究される時にはおそらくシンプルなところからやられると思いますが、ブラフやハッタリ、交渉術といったところにどんなお考えがあるのか、個人的には興味があるのですが…。
水木先生がやっているような、要は自分の意思を隠してある種の交渉を行うという研究だと、ブラフとかハッタリに関する数学についてコメントができるだろうと思いますが、僕は数学者なのでそういったものとは無縁の世界にいるわけです。そこで質問をちょっと変えさせていただいて、ブラフとかハッタリを行うことが善なのか悪なのかという点について話したいと思います。一概にブラフは悪であって、あるいはブラフは善であるという答えはないと思いますから、どういう状況であれば善であって、どういう状況であれば悪であるかと考えてみたのですが、例えば自分だってブラフとかハッタリをかますことがあるわけです。例えば誰かをデートに誘う時とか、ほとんどないんですけど、そういう状況があった時に自分を良くみせるためにいいレストランとかに連れて行くわけです。それは、そんな立派なレストランに普段から出入りしていて、あたかもすごい収入があるかのように見せる、そういう効果があるわけですが、実際はそうじゃないわけです。もっとデタラメな人間だったりするわけです。そういう意味では自分の利益のためのブラフなわけですが、例えばファミレスに連れて行ったら相手がどう思うかという、一方ではマナーとしての側面もあるわけです。そうしたことを考えると、恋愛におけるブラフみたいなものは、相手を不当に傷つけなければ特に悪ではないし、順当だとは思います。例えばもっと簡単なポーカーだったらどうでしょう。あれは最初からお互いがブラフをかますことを承知した上でやっていることなので、ゲームですから、それは当然悪として判断することは難しい。だからそういった自分の経験と照らし合わせて考えてみると、ブラフやハッタリが善か悪かを決めるのは結局のところ相手を傷つけるかどうか、ブラフをかますことで不当に自分が利益を得られるかどうか、といった点になると思います。僕が数学をやるようになったのは、こういった善悪の判断からある意味逃れるためなのですが、しかし数学者として何か答えを出そうとする時には前提条件をはっきりさせて、その前提条件のもとにおいては斯く斯く然々のことが言えるというスタンスを数学で学んでいるわけですから、この善悪の判断も一律に切り捨てたり、十把一絡げにしたりするという態度ではなく、状況に応じて善悪が変わってくる。ブラフにしてもそうだというのが僕の考えです。
ありがとうございます。先生の学者としての生き様が出ている回答でした。それでは水木先生、どうでしょうか。
ブラフやハッタリが起こりうる交渉の場において、今回私が紹介した秘密計算というものが、もしかしたら役に立つことがあるのかなと思いました。秘密計算で物事が、交渉が進むというか、今回告白を例に出してみましたが、実際に今回お話ししたような設定というのは、AliceとBobの2人がいる状況で、じゃあ告白しようってなるかというと、それには私も疑問はあります。しかしながら、よく学校とかですごく仲のいい2人が何かのきっかけでケンカしてずっと話さなくなったという状況がありますね。2人は仲直りしたがっているけれど何となくお互い言えなくて、ずっと何か月も話もしない状況があると。そういう時に周りの第3者が、今回のような秘密計算をお膳立てしてあげて、論理積、かけ算を秘密計算させると、結果成立になって仲直りということが期待できるかなと。実際に使うという意味では、今回の秘密計算を私は何度も役に立てています。ある授業では、次の週に街なかで昼食会をやるかどうかを決めるというのをやりました。21人のクラスでしたが、全員で今日紹介したプロトコルをやりました。今日ご説明したプロトコルは、慣れてくると1回につき1分以内で実行できるのですが、21人を直列でやるとわりと時間がかかるので、21人を3つに分けて並列に計算しました。そして、最終的にめくったら結果は「YES」だったのです。つまり21人全員が「行きたい」ということになりますので、次の週にみんなで気まずくならずに昼食会に行くことができました。また、ブラフと少し関連して、攻撃というものが暗号の世界にはあり、これがブラフに近いかもしれません。攻撃の一つとして、嘘の入力を入れて相手の情報を取ろうとすることを考えると、例えば今回の秘密計算でもBobくんとAliceさんとで考えた時に、Bobくんが必ず「1」を入れると相手の値がわかるのです。自分が「1」を入れるとかけ算で「a×1=a」がそのまま答えになるので、Bobくんが常に「1」を入れ続ければ、Aliceさんの答えaが分かってしまうというわけです。秘密計算には「入力には嘘をつかない」という前提があって、秘密計算をやる前に、2人は意味のある答えを入れることによって意味のある答えを得たい、という交渉というかモチベーションがないと使うことはできません。だから、交渉の段階でそれをうまく使えば、何か役に立つのではないか、そんなふうに思いました。
ありがとうございました。実は今日の午前中に議員さんの研修に行ってきました。議員さんの質を上げなければならないという話の時に、サンプルをちゃんと入力するということをやってくれれば秘密計算でちゃんと合意が取れるのでしょうが、議員さんたちは案外不真面目に投票したりするので、思った通りの結果が出ないということがありました。ある種の性善説を前提としてスタートしているというところもあると思いますので、そういう点ももっと研究していただけると社会的な意思決定に参考になるのではないでしょうか。
さて、最後に長野先生と北形先生への質問です。長野先生の講演の中にあった「ヨ」と「ネ」といったものは、関係性の成立や信頼形成など、人間関係の部分にどんな影響があるのかという点でもう少しお考えをお聞きかせいただきたいと思います。長野先生、いかがでしょうか。
コミュニケーションと信頼形成ということですけれども、一つ、先ほどこういう質問がありました。英会話をする時にしばしば、付加疑問という言い方はあるけれど、「ヨ」と「ネ」がないので困ると。とても微妙なニュアンスを自分としては言いたいのに、それを言えなくて困ると。この感覚はよくわかります。日本語のように「自分」と「人」を使う言語というのは、メッセージとその話し手、つまり、誰がそれを発話しているかということが緊密に繋がっているのです。言語表現の中で、アイデアとアイデンティティが結び付いている。それは、講演に引きつけていいますと、聞き手のことをYouではなく、「長野さん」とか「浦本さん」といったその人の名前で呼ぶしかないからでしょう。そのように人のアイデンティティと言葉というのを結び付けて使用していくというのが、<自分/人> 型の言語の有り様なのです。一方、英語ですが、ご質問の件、文末詞を使わなくても心配する必要はありません。というのは、<I/You>型言語では、言葉は言葉、アイデンティティはアイデンティティであって、切り離されているからです。IかYouかという役割、そしてWeと名付けられる認識上のコモングラウンドは、純粋に言葉が作る世界、つまりアイデアの世界であって、アイデンティティとは切り離されています。そこには、たぶん言葉への信頼というものがありますので、「ヨ」とか「ネ」を付けなくても相手が怒ることはないのです。英語と日本語を比較している人間としては、日本語話者としてはもうちょっとアイデンティティとアイデアというのを切り離して、コモングラウンドの言葉だけで形成される情報共有をもっとうまくやっていければ、あるアイデアがあった時にそれが妥当なのかどうか、どうしたら実行できるのかということを、それが誰のアイデアか、誰がそれを言ったのかということとは独立してもっと詰めていけると思います。私たちはメッセージの送り方とか送り先というのをとても心配してしまいますが、言語表現は基本的にアイデアを載せるもの、命題を送るものだというところを、いわゆるコンテンツのところをもう少し信頼してもいいのではないでしょうか。
ありがとうございます。日本人は奥ゆかしいということでしょうか。やはり言葉をどう紡ぐのかというところにウエイトを置き過ぎているところもあると思いますので、その辺りのことも考えていかなければいけないなと思います。それでは北形先生からご意見いただければと思います。
コミュニケーションと信頼形成という観点から見るとどうか、という質問ですが、はじめに「信用」と「信頼」の違いを確かめておこうと思います。調べたところ、「信用」とはこれまでの実績とか担保、過去の状態に対する言葉。「信頼」というのはこれからに関してその人と同意できるかとか、これからのことを表すと言っている人がいました。伊藤先生のお話に、赤ん坊は言葉がまだ話せなくても相手が敵か味方かは分かるというのがありましたが、信頼というのは、相手が自分の味方かどうかを知る、分かる、感じるということがまず重要と言われています。また逆に、相手が自分を受け入れてくれるのかということもあるでしょう。そしてもう一つが、共通の将来のビジョンといいますか、共通の未来があってそこにお互い努力していけるという関係になってくると信頼が形成できるという見方ができると思います。伊藤先生が話された「空気を読む」というものがありますが、それを明示的に言語コミュニケーションとして伝えるというのが、信頼形成における一つのコミュニケーションの役割というか、可能性になるのではないかと思います。一方で、情報システムを使ったコミュニケーションの中にも、行動変容という、相手の行動を変えていくようにコンピュータが仕向ける、努力する、また与える情報を操作するという研究があります。人がやるならブラフという話にもなりますが、ある意味言語的なところが強く、直接感じることのできない、空気が読みにくい情報システムを使ったコミュニケーションでは難しい部分もあるのではないでしょうか。そうした点をうまく乗り越えていく必要があるのではないかと思います。
ありがとうございます。選挙について話す時、いつも話題になることがあります。それは、インターネットしか情報源にしない人たちはどんどん極端になる、意識が変わってくるということです。情報を集めるのが簡単になっているので、自分にとって好ましい情報ばかり集めるようになる。その点では、通常よく言われている情報源、口コミといいますか、フェイス・トゥ・フェイスで、嫌いな人ないしは上手くいかないなという人ともコミュニケーションしないと厳しいのかなと思います。かつてある研究で、NHKをずっと見ている人と報道ステーションという番組ばかりを見ている人にアメリカに対する意識を聞いたところ、NHKを見ている人はあまり変化がないのに対し、報道ステーションを見ている人はどんどんアメリカが嫌いになっていく、というデータが出ていて衝撃を受けました。家族と会話している人、職場で嫌いな人とも会話しているという人なら、複数の異なる情報が入ってくる余地がありますが、ネットやテレビしか見ていないとなると情報が限定されてしまいます。その点では、情報技術を使うというだけでなく、コミュニケーションの仕方というものも検討する必要があるのかなと感じています。
時間が来ましたのでそろそろまとめさせていただきたいと思います。先生方の話を通して、コミュニケーションというだけでも多岐にわたる研究テーマがあるということが見えてきました。あとはそれぞれの研究をどうつなげていくか、そして社会実装をどう進めていくかが重要だと感じました。このシンポジウムもそうですが、文理の垣根を越えて議論する場を作っていくことも東北大学が進めていることの一つだと思います。情報技術が進展する一方で、孤立化、社会的不適合者を生んでいるという指摘もあります。最近では、着信拒否をたくさんすることによって、自分と少しでも違った状況があればそれを排斥していこうということが可能な時代にもなっています。そういった部分についても常に幅広く研究し、発信をしていくことが必要ではないかと思います。
本日はありがとうございました。